食事も、毎日、殆どの人は三食食べています。で、その他にも、間食でお菓子も食べるだろうし、デザートでケーキやアイスも食べるだろう。そう、人間、空気を食べてばかりいては死んでしまうので、『食べる』という動作は、人間の生活の中の基本中の基本なのです。
で、もしも自殺未遂で片手や両手が無くなったとしたら、食事がとんでもなく不自由になってしまう。実は食事こそ、いかに両手と両手の指のお陰で何不自由なく出来ていたかがよく分かる動作なのだ。
勿論、車椅子生活ならば、冷蔵庫を開けるとかの動作一つとっても、立って移動可能な健常者と、車椅子生活の人では対応可能な高さが違うので、車椅子生活の人は、冷蔵庫の上の方の冷凍庫を開けるとか、不便だろう。しかし、両手が使えるのならば、まだマシだ。
でも、この両手と両方の手に付いている合計10本の指というのは、とっても貴重で有り難いものだ。だから、自らこの貴重な部位を、自殺未遂で失うことのないように。
日常のとある食事。何気ない食事。これでも、手と指が有るのと無いのとでは大違いだ。苦労の度合いがね。
手と指があれば、普通に摘まめる。簡単に口に移動できる。
この[掴(つか)む]という何気ない動作にこそ、人間の進歩が隠されている。
摘まむことにより、簡単に食事を食べることが可能。何も悩むことはない。
で、一口食べたら、ちょっとだけ口から離した位置で、口の中が空になるまで待機させることも可能。物体を空中で停止させている、この動作の凄さよ。ドローンと同じことが、無料で出来る、この人体は凄い。牛や馬では無理です。
何も悩むことはない。食事も簡単だ。[食事すること]自体、何も悩まないので、食べながら別のことを考えることも可能だ。でも、もしも腕と手と指がなければ、食事すること自体に集中しなければならず、他の無関係のことを考えている余裕はない。
簡単に摘まめる、この機能が無料で備わっている。偉大だ。
さて、もしも手が無ければ、そして誰も介助してくれなければ、必然的に、犬みたいに、口を食べ物が置いてある皿に近付けて、口で噛まないといけない。
う~ん、外のレストランでは、こんな食べ方は出来ない。ジロジロ見られてしまうから。恥ずかしいです。
でも、しょうがない。手がないのだから。食事の介助者がいない以上、こうするしかない。
これでも、首とかが動くからまだマシなのだ。首も動かなければ、もう、どうしようもない。だから、首吊り自殺未遂も危ないぞ。マジで。首も大切だから。
思いっきり犬の気分です。あ~ぁ、手があればなぁ。
そう、手があれば、このように楽ちんです。
また手がないパターン。神社の池で泳いでいる鯉が、投げられた餌を食べようとするみたいに、こうして食べ物に食らいつかねばならない。
う~ん、これが一生続くのか…辛い。やっぱり手足は大事だね。
普通に食事が出来る、この有り難さ。
何も心配はいらない。まあ、格好悪い写真ですが、皆さんに、食事の際の手のありがたさをしみじみと思い知ってもらう為なので、恥ずかしい写真であっても、お見せしましょう。
手があったので、思いっきり短時間で食事終了。
コーンポタージュもあります。
こっちも、手がないので、このようにコップの中に口を突っ込まなければならない。でも、この方法では、全部は飲めない。斜めにしたらこぼれる可能性が高いしなぁ。詰んだ。
普通に手があれば、このように、何の心配もなく飲み物も飲めるのだ。
という訳で、今、生身の五体満足の肉体が備わっているのならば、その肉体を大切にしましょう。自殺未遂で失うことのないように。勿論、事故とか病気にも気をつけてくれ。
マジで、食事というのは人間の基本であり、その食事の際に、一々、介護者に助けてもらわなければ食事が出来ないというのでは、嫌でしょう。老人ならともかく、まだまだ若い人が、飛び降り自殺未遂で両手を失い、この先の長い長い一生を赤の他人に介助されながら過ごすというのは、それは生き地獄です。
故に、絶対に生身の肉体は大切にしましょう。死にたい気分なら、考え方を転換すれば変えられる。だが、失った生身の自分の手足は、もう二度と戻っては来ないぞ。